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【インタビュー】『雨花蓮歌』朴正一監督
――朴監督は、前作『ムイト・プラゼール』が、2020年の本映画祭の国内コンペティション短編部門に入選して、見事観客賞を受賞しました。今回の『雨花蓮歌』はそれに続く作品になります。前作を経て、なにか次回作で考えたことはあったのでしょうか?
2007年に発表した自主映画『男!ドあほう Rock’n Rollers』が第9回インディーズムービー・フェスティバルで準グランプリに輝いたんですけど……。その後は何をやってもダメで。結婚を機に、一度、自主映画を作ることを辞めたんです。
ただ、不思議な縁で日系ブラジル人の子どもたちと出会って、彼らが日本社会にその存在を知ってもらう機会を作りたい。そうなったときに、自分ができることは自主映画を彼らと作ることぐらいしかなかった。つまり『ムイト・プラゼール』は、一度は諦めた映画作りを、必要に迫られて再開したようなところがあったんです。
だから、自分の中ではあまり次の作品という意識は当初はなかったです。ただ、SKIPシティで入選して、観客賞をいただいた。ほぼ同時にプライベートなことですけど、結婚生活にピリオドを打つことになりまして……。となるともう独り身で誰に迷惑をかけるわけではないと勝手な解釈をしまして、「これは自由に作れ」といわれているのかなと(笑)。
それから、日系ブラジル人の彼らはみんな素人で映画現場の経験があるわけでもなければ、役者志望でもない。文化も考え方も違うので時にトラブルになって大変だったんですけど、そのことが吹き飛ぶぐらい楽しかった。同じ日本に住んでいるけど多少文化が違う人たちと一緒にひとつのものを作り上げるというのはすばらしいことだと実感したんです。
で、そうやって作品が完成したとき、例えば映画祭で賞をとるとかまだなにも結果が出ていない時点で、出演した子どもたちの親御さんをはじめ日系ブラジル人のみなさんにものすごく感謝されたんです。今まで生きてきて、これほど人からお礼を言われたことはなかった。そのとき、初めて結果なんかどうでもいいやと思えた。これまでずっと賞が欲しい欲しいでやってきたけれども、これだけ多くの方に感謝されたことだけで十分。そう思っていたらSKIPシティに入選して賞もいただけて、さらに彼らに恩返しをすることができた。
そこで、まあこれは自分へのご褒美で、もう一本作ってもいいのかなと思いまして、今回は始まりましたね(笑)。
――その中で、ご自身のルーツである「在日コリアン」を主題にされました。これまでこのことをテーマにした作品を作ったことはなかったんでしょうか?
そうですね。ありませんでした。まずお話しをしておくと、僕自身が小学校の途中から30歳ぐらいまで在日コリアンであることを隠して、ずっと通名で生きてきたことがありました。なので、このことを大々的にテーマにして映画を作ることはありませんでした。対外的に出すことは自分としてはかなりハードルが高くて、はっきり言ってしまえば勇気がなかったんですね。
ただ、前作の『ムイト・プラゼール』は、日系ブラジル人の存在を日本の人たちに知ってほしいとの思いから作りました。そのことを経たときに、自然と「じゃあ、今度は自分のルーツについて描いてもいいのかなぁ」と思いました。それで一歩踏み出した感じです。
©Jengilpark
――脚本は共同脚本として高橋優作さんの名前がクレジットされています。
はじめは自分で一年以上かけて書いたんですけど、どうもうまくまとまらない。自分の中で長く抱えていたことなので、どうしても自分のイデオロギーや主張が強く出てきてしまう。どうしても説教臭くなっちゃうんです。それはわかるんですけど、どうすれば説教くさくならないで済むのか見当がつかない。
それでフラットな視点で見てくれる人間が必要だと思って、髙橋さんに入ってもらいました。彼ははじめにこういうことを言ったんですよね。「見てくれた人が最後に何についての話だったっけ、というぐらいがいいんじゃないですか」と。在日コリアンのことが主題ですけど、そのことについて意見を押し付けるような作品にだけはしたくなかったので、髙橋さんのスタンスはいいなぁと思って参加してもらって、そこから二人三脚で脚本を改めて書き上げていきました。
――自分で書いていて、ちょっと説教臭く感じてしまうところはどういうところだったのでしょう?
最終的に残したところで言うと、たとえば「汚い血」という言葉が出るシーンがありますけど、あそことかですね。僕が今まで生きてきた中で、映画と同じようなシチュエーションになった何人もの人から聞いた言葉ではある。ただ、実際に映画で描くときつめの言葉になるので、なんか受け手側としては圧がかかる。そういうところがいくつかあって、かなり薄めたつもりではあるのだけれど、ちょっと説教臭くなっちゃったかなと思うところが正直あります。
――作品は、在日コリアンの春美が主人公。普通に大学に通い、キャンパスライフを満喫している彼女はさほど自身が在日コリアンであることをふだんは意識していない。ただ、家族との関係や、友人のさりげない言葉にちょっとひっかかることがある。
一方、春美の姉の麗子は結婚を考えている相手がいる。ただ、その相手が日本人ということで母や外野の人々からいろいろな意見が入ってきて悩まされることになる。
姉妹を通して、在日コリアンであるがゆえの悩みや問題が確かに描かれている。ただ、そのことに特化しているわけではない、さきほど話に出たように「在日コリアンの」というワードが外れて、いまという時代をごくごくふつうに生きている人たちの物語になっている印象を受けました。
僕はいつもそうなんですけど、見てくれる人を限定したくないといいますか。前作の『ムイト・プラゼール』は確かに日系ブラジル人をテーマにした映画ですけど、日系ブラジル人の方だけにみてほしかったわけではない。むしろ彼らのことを知らない人たちに届けばと思っていました。今回も同じで在日コリアンをテーマにしてますけど、在日コリアンの方だけに向けて作ったわけではない。在日コリアンはもとよりいろいろな人に見てほしい。
たぶん春美と同じような悩みをもっている人って、在日でなくてもいっぱいいると思うんです。麗子のような結婚問題に直面した人も、在日コリアンに限らずいると思います。姉妹と根底でつながっている人はきっといっぱいいる。そういう人たちに届いてくれたらなと。
ですから、在日コリアンをテーマにしてはいるのだけれど、見る人を限定してしまうことだけは避けたかった。そこは気をつけましたね。
――主人公の春美役は、山崎悠希さん。『ムイト・プラゼール』に続いてタッグを組むことになりました。
前作でご一緒してもう一度、彼女と映画を作りたいと思って。春美に関してはもう彼女を想定して脚本も進めていきました。
ここでちょっと裏話をすると、髙橋さんと二人三脚で脚本を書き進めて、「これで行こう!」という段階のとき、いち早く山崎さんに脚本に目を通してもらったんです。そのときに伝えたんです。「おかしいと思うこと、少しでも疑問があったら率直に言ってください」と。
で、春美は山崎さんを想定して生まれた人物ではあるのだけれども、その中身は僕自身をかなり投影させていて。自分が在日コリアンとして日本で生きることで体験してきたことやそのときの気持ちというものが乗っている。ある種、僕の思いを勝手に山崎さんに背負わせているところがあるので、率直なところを言ってほしいと伝えたんです。
すると、彼女はずっと日本人として生きてきたので当然と言えば当然なんですけど、正直、在日コリアンの人たちの気持ちのほんとうのところはわからないと言われちゃったんですよね。
そこからまた脚本を彼女に合わせて書き直したんです。それで、いまのような自分が在日コリアンであることをさほど深刻に受けとめていない春美になった。これで成立するのかなと僕は当初思ったんですけど、いやいや正解だったなといま思います。それこそ春美がそういうスタンスで劇中に立っていることで、説教臭くならなかった。実際、いまの若い世代の在日コリアンの受けとめ方って、春美ぐらいのスタンスだと思うんですよね。
だから、山崎さんがこの作品で果たしてくれた役割はかなり大きいです。作品の根幹の部分までかかわってくれたところがあって感謝しています。
©Jengilpark
――そのような経緯を経て完成した作品が入選ということで。前回は短編で、今回は長編での入選ということでまた違った喜びがありましたか?
いや、これがまたお恥ずかしい話なんですけど、僕、ずっと2007年に作った自主映画『男!ドあほう Rock’n Rollers』は長編映画だと思っていて、周りにもさんざん自分は短編だけではなくて、長編映画を作ったことがあると吹聴してきていたんですよ。偉そうに(笑)。
で、今回応募しようとなって、長編何本目かという項目があったので、2本目だなと思っていた。ただ、なにか間違いがあってはいけない。ということで『男!ドあほう Rock’n Rollers』の尺を改めて調べたら、なんと59分。SKIPシティの規約だと60分以上が長編扱いなので、僕は長編映画を撮っていなかったことが発覚しました(笑)。ほんとうに一丁前に長編映画を撮ったことがあるていで、若い監督とかにアドバイスを求められたらしていた自分を殴ってやりたいです。
これは余談ですけど、入選に関しては僕としてはSKIPシティを最大の目標に据えていて、そのことをスタッフ一同にも伝えていました。ですのでうれしかったと同時に、宣言もしていたのでまずは入選して安堵したというのが本心です。
ただ、今回気づいたんですけど、国内コンペティションの入選が長編6本に対して、短編は8作品なんですよね。実は短編よりも狭き門で、いまさらながらよく入ったなとびっくりしています。
あと、前回はコロナ禍でオンラインのみの開催でした。でも、今回はオンラインと会場でのリアルでの開催で、直接、見てくだった方がどんな反応をしてくれて、どんな感想を寄せてくれるのか楽しみです。
――では、ここからはキャリアについてのお話しを。かれこれ15年以上、自主映画を作り続けていらっしゃるのですが、最初のきっかけは?
僕の場合は、有名な監督に影響を受けてとか、ある映画に出会ってとか、ではなくてデバイス面の環境が整ったということが映画作りに踏み出すきっかけでした。
どういうことかと言うと、僕が若いころは映画を作ることなんて考えもしなかった。カメラを用意することだけでも大変でしたから。
それがだんだんと性能のいいビデオカメラが小型化されて安くなった。ちょっと頑張ればけっこういいクオリティのカメラが手にできるようになった。それからパソコンが普及して、パソコンの画面上で映像が編集できるようにもなった。素人でも映像制作に簡単にアクセスできて作る環境が整ってきた。
そうなったときに、僕は「もしかして自分もできるかも」と思っちゃったんですよね(笑)。
そこにはもともと映画が好きだったということがもちろんあります。両親が共働きということもあって、一人で電車に乗って渋谷で洋画を見るような子ども時代を過ごしていました。
で、成長するにしたがって、映画に関わる仕事になんでもいいから就きたいと思っていたんですね。でも、そこでデバイス面が整って自分で作る環境が整った。じゃあ自分で作ってみようかとなった。それで映画作りを始めたといったところです。
――では、自身の映画作りに影響を与えているかは別として、好きな映画や好きな監督はいますか?
僕の人生においてのフェバリット・ムービーは『テルマ&ルイーズ』なんです。1991年の劇場公開時、アメリカの大学に通っていてアメリカでみたんですけど、彼女たちみたいに自分も自分らしく生きられたらいいのになと、本気で思いました。ものすごく感動したんです。
そして、今年のはじめ『テルマ&ルイーズ』が4Kレストア版になってリバイバル公開されましたよね。で、見に行ったんです。
ただ、初めてみたときから30年以上が経っていて、自分も当然いろいろな社会の荒波にもまれて考え方や意識が変化したところがある。だから、当時のような感動はまずないだろうなと思っていたんです。ところが見たらもう感動はそのままで号泣してしまったんです。
そのとき、よかったと思いました。お金ないのに自主映画を作り続けてますけど、それもまた自分らしい。ここまで自分らしく生きてこれたんだなと確認できたんですよね。
『テルマ&ルイーズ』のような作品は自分には作れないでしょうけど、彼女たちと同じように自分も自分らしくこれからも生きて、その中で自分らしい映画を作っていけたらいいなと思っています。
取材・写真・文:水上賢治